会津藩と戊辰戦争:誇りと忠義の物語

戊辰戦争の背景と会津藩

戊辰戦争(1868〜1869年)は、江戸幕府を中心とする旧体制と、明治新政府を樹立しようとする勢力との間で起きた内戦です。大政奉還によって幕府が形式上は政権を返上した後も、政治の主導権をめぐる対立は解消されず、武力衝突へと発展しました。

戦いは京都の鳥羽・伏見から始まり、東日本、そして北へと広がっていきます。戊辰戦争は単なる「新旧の争い」ではなく、日本が近代国家へ移行する過程で生じた混乱と緊張が、一気に噴き出した出来事でした。

会津藩が置かれた立場と背景

会津藩は、江戸幕府における北陸・東北の要として重要な役割を担っていました。藩主松平容保は、京都守護職として幕府の秩序維持にも関わり、藩全体が幕府への忠義を最優先にしていました。しかし、新政府軍の進撃によって会津藩は孤立し、戦略的・心理的に困難な状況に置かれます。会津の人々は、幕府への忠義と藩の存続の間で厳しい選択を迫られました。

戊辰戦争の経過と会津藩の動き

戊辰戦争は、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いから始まりました。その後、東海道・北陸・東北各地で旧幕府軍と新政府軍が激突します。会津藩は北陸方面から進撃する新政府軍の前線を支援しつつ、藩兵を動員して戦場へ向かいました。特に会津戦では、鶴ヶ城を中心に藩兵が奮闘し、籠城戦を展開しました。

会津藩を支えた主要人物

戊辰戦争において、会津藩の判断と行動を支えた人物は数多くいます。ここでは、流れを理解する上で知っておきたい人物を挙げます。

  • 松平容保:会津藩第9代藩主。京都守護職として幕末政治の中枢に関与し、藩の命運を背負った。
  • 西郷頼母:西郷家は会津藩の家老を代々務めていた。容保の京都守護職就任に反対した恭順派。
  • 田中土佐:田中家は藩内の名門。会津藩校日新館を創設した田中玄宰の子孫。西郷頼母と共に容保の京都守護職就任に反対。甲賀町口にて新政府軍と奮闘するも負傷し、神保内蔵助と差し違えて自刃。
  • 佐川官兵衛:会津藩士を体現するような人情に厚く、また、「鬼の官兵衛」と恐れられたほど武勇に秀でていた。
  • 山川浩:ロシアに渡航し、世界情勢を知る。新政府軍に包囲された若松城に、会津の伝統芸能「彼岸獅子」の一行に扮して入城し、防衛総督として勇戦。現・筑波大学である高等師範学校の初代校長。
  • 山本覚馬:会津藩の砲術担当。新島八重の兄。同志社設立に深く関与し、近代教育の発展に寄与。
  • 秋月悌次郎:随一の秀才。薩摩藩との会薩同盟の立役者。京都から長州藩を排除。
  • 萱野権兵衛:降伏交渉を担当し、会津藩存続のために責任を一身に負った。
  • 神保修理:山本覚馬の盟友。開国派で広い視野を持っていた。そのため伊藤博文などからも支持をされていた。恭順派でもあったため疑念を抱かれ、最後はすべての責任を一身に背負って自刃。
  • 篠田儀三郎:白虎隊士中二番隊の隊長代理として率い、戸ノ口原から飯盛山に至った白虎隊士の一人。

白虎隊と会津戦争

白虎隊は16〜17歳の若者で編成された会津藩の部隊です。会津戦争の最中、彼らは前線に投入され、その一部が飯盛山で自刃した出来事は広く知られています。

白虎隊の忠義は、会津戦争の過酷さと、当時の若者たちが置かれた状況を象徴する出来事として、現在まで語り継がれています。

白虎隊の足跡をたどる、会津の歴史ロマンフットパス

――戊辰戦争の終盤、会津の地に散った少年たちがいました。その名は「白虎隊」。わずか16〜17歳という若さで、故郷と誇りを守るために戦い抜いた彼らの足跡は、今も飯盛山…

新撰組と会津藩の関係

新撰組は京都を中心に治安維持や反幕府勢力への対応を行った武士団で、会津藩の支援を受けて活動しました。近藤勇や土方歳三らは京都で活動しながら、会津藩の忠義を反映した存在として知られます。戊辰戦争での戦闘直接参加ではありませんが、会津藩との精神的・政治的な結びつきは深いものでした。

現代に残る会津の痕跡

会津若松には、戊辰戦争の記憶を伝える場所が今も残っています。鶴ヶ城、飯盛山、藩士の墓所などを訪れることで、史料だけでは分からない「戦争の現実」を感じ取ることができます。

戊辰戦争における会津の歴史は、単なる敗戦の記録ではありません。激動の時代の中で、何を守ろうとし、どのような選択をしたのか。その積み重ねが、今の会津の歴史と文化につながっています。

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